ポアンカレ3部作

 ポアンカレは、20世紀初頭に現代科学の基礎を築いた。『科学と方法』『科学と仮説』『科学と価値』は邦訳で読めるため、日本ではポアンカレ3部作として認知されている。
 わたくしドクタータカハシはいま、『科学と方法』を現代語訳する作業の最中である。岩波文庫版は半世紀前の翻訳であり、旧字体が使われ言葉づかいもいかめしい。
 表現の正確さは(さすがに他称ドクターだけあって)保証できないため、出版はできないが、青空文庫で無料で読めるようにしたいと思う。現在工作員として登録申請中である。
 緒言を訳してみた。ポアンカレだけあって話が飛んでいる個所がある。これについては原文を一読の上、ご容赦願いたい。

科学と方法

緒言
 わたしはここに、科学の方法論について直接間接に関わるさまざまな研究を集めた。科学の方法とは観測と実験である。科学者にもし無限の時間が与えられていれば、彼らにはただ「見ること、そして正しく見ること。」とだけ伝えれば充分だろう。しかし、科学者ひとりにはすべてを見尽くすほどの時間、ましてやすべてを正しく見尽くすほどの時間が与えられていない。また、下手に見るくらいならむしろ、何も見ていないことと同じである。よって研究主題を選択する必要が生じる。ゆえに、まずどうやって研究主題を選択するべきかを知るのが第一の問題となる。これは歴史学者だけでなく、物理学者にも、また数学者にもあてはまる課題であって、各専門家にとっての指導原理の間には自然と相互に似ているところがなくはない。科学者はこのような原理に本能で従って、研究主題を選び取っていく。ゆえに、わたしにとっては数学の将来がどうなっていくかについても、この原理を考察することで予見できるのである。
 このあたりの事情は、科学者たちが研究しているところを実際に観察すれば、さらによく了解されるだろう。まず何よりも、発見の心理的カニズム、とりわけ数学的発見の心理的カニズムを知らなければならない。数学者たちの研究の過程を観察すれば、特に心理学者たちが得るものは少なくない。
 すべて観測による科学においては、感覚や装置の不備に由来する誤差を考慮に入れなければならない。幸い、ある条件の下では、この誤差は部分的に互いに打ち消し合って平均すると数値的に現れないと考えられる。この互いに打ち消し合うということは偶然によるのだが、いったい偶然とは何か。この偶然という概念に正当な根拠を与えること、いや、さらには定義を与えることすら簡単ではない。しかも、以上のような観測の誤差についての記述によれば、科学者は偶然なしには発見を成し得ないことは明らかである。ゆえに、このように必要ではあるが捉えがたいこの概念について、できる限り正確な定義を与えたい。
 以上は、結局すべての科学について適用できる一般論である。たとえば、数学的発見のメカニズムは日常生活での発見のメカニズムと特に違いはない。これに引き続き、わたしは個別の科学に特に関係する問題に言及しようと思う。まず第一に純粋数学からはじめたい。
 純粋数学に関する数章では、いままでよりもやや抽象的な問題を取り扱うことになる。まず第一に空間の概念について語る。空間が相対的であることはだれもが知っている。というよりは、だれもが口にすることではある、だが、実際には空間を絶対的だと信じているかのような考え方をしている方々がどれだけ多いことだろう。しかし、自分がどのような矛盾にはまっているかについては、少し反省すればだれもがすぐに認めるだろう。
 教育についての問題は、第一にそれ自体が重要ではある。しかし、さらにここに第二の理由がある。というのは、スポンジのような脳に、どのようにすればもっともよく新しい概念を叩き込むことができるかを考えることは、すなわち、われわれの祖先がどのようにしてこれこれの概念を得たか、したがって、その概念の真の起源は何か、真の性質は何か、を考えることにほかならないからである。専門家たちを満足させる定義が児童らに少しも理解されないことは、もっともよく見受けられることだが、これはいったい何によるのだろうか。児童らには異なった定義を与えるのはなぜだろうか。これはわたしがその次の章で取り扱う問題であって、これに対する回答は、科学の論理を研究する哲学者たちにとって、有益な反省を促すことになると信じている。
 他方で、数学を形式論理の規則にまき直すことができると信じている数学者たちが少なくない。聞いたことのない努力がこの分野に注がれた。これを成し遂げるために、彼らは、たとえばわれわれの概念発生の歴史的順序を転倒することもあえて恐れず、有限を無限によって説明しようとさえ試みたのである。何らの精神なくこの問題に取り組む方々には、ここに人を欺く幻覚が潜んでいることを、充分明らかにすることができたと信じている。読者がこの問題が重要であることを理解し、このために割かれた数ページが無味乾燥であることをご理解いただけるよう、わたしは望んでいる。
 力学と天文学についての最後の数章はいままでよりも読みやすいだろう。
 力学はいまや徹底的な革命を受けようとしているように見える。確固たる基礎をもつかのように見えた概念も、大胆な革新者の革新の対象となった。確かに、革新的であることだけで、ただちに彼らに理ありとするのは尚早ではあろう。しかし、彼らの説について語ることは興味深いことであって、わたしが試みようとすることも革新的であることにほかならない。わたしはできる限り歴史的順序に従った。なぜなら、この革新的な方法はどのようにして生まれたかを知らないときには、あまりに驚くべきものに見える恐れがあるからである。
 天文学はわれわれに壮大な光景を展開し、また巨大な問題を巻き起こす分野である。天文学に直接実験する方法を応用することは考えられなくはない。われわれの実験室はあまりに小さいからである。しかし、この小さな実験室において研究できる現象から類推したアイデアは、天文学者の指針となるだろう。たとえば、ある銀河は多くの恒星の集合であって、それらの恒星の運動は一見気まぐれであるかのように見える。しかし、これを気体分子運動論によってその性質が明らかになった気体分子の集合になぞらえることは許されないだろうか。このような回り道を経て、ついに物理学者の方法が天文学者にとって役立てられるのである。
 最後に、フランスの測地学の発達史について数言を申し上げたいと思う。地球の形について現在われわれがもっているいくつかの概念を得るために、わたしたち測地学者がいかに絶え間なく努力してきたか、どのような危険をしばしばおかしたかを、わたしはここに示した。これははたして方法の問題だろうか。もちろんそうである。というのは、この歴史は、ひとつの真剣な研究プロジェクトを遂行するには、いかに慎重な注意をもって臨まなければらないか、また物理量の小数位一つを新たに決定するためには、いかに多くの時間と苦労が必要であるか、を教えるからである。

 生硬な個所などあればご指摘願いたい。今後に役立てたい。今後とは、ポアンカレ3部作を全訳し電子書籍で無料で読めるよう流通させるとともに、3部作とは言わず第4の著作『科学者と詩人』も丹精込めて訳すだけの時間とお金を得るという小さな夢のことである。